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イエロー・マジック・オーケストラの奇跡

1978年11月25日にデビュー・アルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」発売。

後に知ったのだが細野晴臣は、ドラマーの林立夫、シンガーのマナと共に細野の「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカバーするというユニットを構想していた。だがこのユニットは実現せず、続いて細野は林と佐藤博(キーボード)のユニットでマーティン・デニーの「ファイアークラッカー」をカバーすることを構想する。しかしながらこれも実現しなかった。このことには他にも説があり、細野と親しい霊感の強い女性が「あの人たちと組むべきでは無い」と助言したという説もあるらしい。まずこの辺にも奇跡を感じる・・・

イエロー・マジック・オーケストラの奇跡_f0091289_2239427.jpg翌年1979年9月25日に代表作と言える「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」が発売になる。ポップで明るい曲調が多いこの作品はわかりやすい内容から一般のリスナーに熱狂的に受け入れられた。日本でテクノ・ポップ全盛時代をつくり上げた。有名な「Rydeen」や「Technopolis」に加え、「Behind The Mask」は後にマイケル・ジャクソンやエリック・クラプトンらがカヴァーするなど海外で高く評価された。一説によるとマイケル・ジャクソンの「スリラー」に収録されるはずだったらしい。総売り上げで100万を突破し、翌年1980年には年間アルバム売り上げランキングのトップに躍り出た!同年2月に発売された「『パブリック・プレッシャー」や6月に発売された「増殖」も同時にランクインされており、まさにYMO一色の1年だった。

しかし翌年3月に発売された「BGM」でははそれまでのポップ指向のスタイルから一転、暗く重いヨーロッパ志向のエレクトリックミュージックを展開し、イメージを大きく変えた。しかし「U.T」などは後に英国の「ニュー・ミュージカル・エクスプレス」誌から「ハードコア・テクノの元祖」と称されている。同年11月には『テクノデリック』が発表され世界で初めてサンプリングの技術が導入された。

1982年からはソロ活動が多くなる。一説によるとこの時期には活動にピリオドを打つという考えがあったようであるが、ビジネス面での要求から解散は先延ばしされた。

イエロー・マジック・オーケストラの奇跡_f0091289_23111336.jpgそして・・・、1982年のヴァレンタインデイに発売された忌野清志郎との「い・け・な・いルージュマジック」資生堂のCMソングでもあったこの曲は大ヒット!「ザ・ベストテン」に出演した時、演奏のバックにプロモを流した。たくさんの札束が風に舞う中での忌野清志郎と坂本龍一のキスシーンには、中学生だった俺は未知なる境地へ飛ばされた!

1983年になると、自らに歌謡曲というレッテルを貼り、ポピュラー志向の日本語ロックを展開する。オジサンアイドルを気取って日本語の歌謡曲を歌う三人の姿は非常にシュールであった。「君に、胸キュン。」でオリコン1位を狙うと宣言したが、皮肉にも細野の作曲による松田聖子の「天国のキッス」に阻まれて2位に終わる。アルバム「浮気なぼくら」は優れた楽曲が納められた緻密なサウンドの作品であった。

そして同年12月14日にラストアルバム「サーヴィス」が発売される。この作品は細野の言葉で言うと「オマケ」でだそうだ。彼は「浮気なぼくら」が実質的なラストアルバムらしい。「サーヴィス」は当時高橋幸宏が担当する「オールナイトニッポン」に劇団スーパー・エキセントリック・シアターがレギュラーとして出演していたことから、彼らとのコラボレーション・アルバムとして製作された。

1993年に1度「再生」という形で再結成される。1枚アルバムを発表するが、以前のポップ性はなく2日間の公演で幕を閉じる。その後は3人での活動は無い。

説明だけでこんなに長くなってしまった・・・
当時の思い出話は次回にします・・・、では